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2005年 04月 12日

Gallery ART SPACE Produce dialogue Vol.11 山本 耕一 展『CODEX』



期間: 2005/04/12~2005/04/17

個展のシリーズ企画「dialogue」の第11弾。雑誌や広告など、さまざまな印刷物から「採取」した既成のイメージを、「写本」のごとく書き写す行為をもとにつくられる平面作品による展覧会。

「人の皮膚というものも、一種の同化作用と異化作用を行い、自己と他者の境をそこに「創出」している、一種の臓器……と考えることができます。」
 これは、展覧会の開催に向けて私が山本耕一と交わしたやりとりの中で、「皮膚」をめぐる自己と他者との関わりについて彼が記した一部分である。このやりとりの最初に私は、山本の表現を評して、あるルールに基づいて自己の意識に根ざす概念やことばをモノに変容し、一方彼が現実の中で出会った事象はテキストへと姿を変えることで、山本自身と他者さらには「世界」との相互関係が築かれるのではないかということを書き送り、それに対する答えに含まれていたのが冒頭の一文だった。「皮膚」を通じて行われる「世界」との関わりを語るこの文は、私が記した造形を通じての「世界」との交信というくだりを受けて、身体的な感覚をもとに一般論を語ったものであるように思われるが、これを読むにつけて私は、以前「皮膜」をテーマとした二人展をGallery ART SPACEにて企画した際のことを思い起こした。
 『語らう皮膜』と題して2004年5月に開催されたこの展覧会は、高久千奈が臓器の皮膜をイメージして制作した紙を素材とするスクリーン状の立体作品に、古厩久子による生まれたばかりの自身の子供のおぼろげな意識を表したような映像作品をヴィデオ・プロジェクターで投影することで空間を創出するという展示だった。そして、この展覧会を通じて私は、現実の中に在ってモノ同士など異なる存在の境界となる「皮膜」の質感と、自身の意識の内に在って私たちの自我とそれを包む外界(=「世界」)との仲立ちとなるような、想像によってのみ感知し得る「不可視の皮膜」がまとう仮構の質感という、性質を違えるこの二つをもって、境界としての「皮膜」をめぐる人と「世界」との関わりを、作家である二人と会場を訪れる観客に対して問いかけてみたかったのである。
 この展覧会で映像のための支持体の役割を果たした高久の作品における、人の身体に含まれる「皮膜」のイメージは、山本が語る「皮膚」のイメージとの重なりを見せるが、それに加えて古厩の作品が表す「不可視の皮膜」についても、山本の作品で行われる自身の意識を仲立ちとした概念と事象の交流との共通性を見て取ることができる。つまり、山本が前出の文章の中で語る「人間の肉体というものは、一つの闇ですね。人は、自分の中に一つの闇、謎を持って生まれ、そして一生をその闇、謎とともに過ごし……人が死ぬと、その謎は、世界というさらに大きな闇の中に消えていく……。肉体のみならず、心というもの、精神というものもそうなのかもしれません。」ということばは、きわめて特殊な状況でなければ目の当たりにすることの出来ない自身の体内に加えて、自己の存在を身体や意識で確かめながらも、永遠の時空間にあっては真の姿を決して知り得ない私たちの在り方そのものを暗に指し示しており、それらを包み隠してなおかつ外界(=「世界」)と結び付ける「皮膜」としての働きこそ、山本の作品が内に含む本質ではないかと思われてならないのだ。

 こうした山本の作品と私が初めて正面から向かい合ったのは、2004年7月に彼の本拠地である名古屋のガレリア・フィナルテでの個展だった。ここでは、彼が20年間にも及んで集めたさまざまな印刷物(54種)から引用したテキストをもとに、A5版・22目・5ミリ幅の方眼紙に文字を出力して表したもの54点を壁面に、彼自身がやはり過去20年間に創作したテキストをもとに同様に出力したものもの54点を床にというように、「6」の倍数をもって壁と床に計108点をグリッド状に配して展示が行われたが(「6」の倍数つまり6進法と「正方形」は山本にとって常に特別な意味を持っており、たと11おえば作品サイズには30cm、60cm、90cmというように、作品の配置については6列、12列、18列というように現れる)、ある基準をもってテキストを選び出す行為においては、山本自身の意識の内にある記憶や概念など(彼自身はこれらに「襞」ということばを当てはめている)が外にあふれ出し、一方、選ばれたテキストが語りかける「何か」によって外からやってきたイメージなどが意識に浸透し、前に述べたように、山本と「世界」とのある関わりを展示空間の中で感じ取ることができたのである。そして彼の作品との次の出会いは、今回の展覧会に出品される予定の『否視 INVISI(アンヴィジ)』のシリーズの内の二点および十数点分の作品ファイルがギャラリーに送られて来たことで訪れた。それは以下のようなものだった。
 スチールのフレームで額装された、画面サイズ26×36cm縦長の白い紙の天地を貫くように、後ろ向きの女性の裸体の下半身が薄目に鉛筆できわめて細やかに描写されており、一点には、画面下方に「INVISI」という文字が、発音を示す記号およびその意味を示すとみられる「否視」という語と並んで裸体の上に重なるように描かれている。また画面には、先史時代の洞窟壁画に描かれる「牛」のような像のシルエットや、踊る女性、神殿のようなもの、テレビ・ゲームに出てくるキャラクターのようなものなどが2cmほどと小さくところどころに描かれているが、画面下半分の背景となる神殿の壁や階段ようなイメージとこれら様々な要素は多層をなしつつも、それぞれが薄く透き通るように描写されることで、渾然一体とした意識の中の一つの景観と化している。
 「INVISI」にまつわる文字が裸体に隠され、その一部だけが覗くもう一点では、裸体や背景としての神殿、さらに数を増して画面にあふれるキャラクターなどの要素は共通しながら、「しゅーかんしんちょー」「ゆきぐにまいたけ」などといった手書きの文字が登場し、同じく薄い鉛筆による画面を眺めた際には様々な要素は埋没し一つのイメージとなり、ある部分を意識的に見た際にはそれら一つ一つとの小さな関わりが発生するという特徴は、前出の作品と全く一致している。
 また、ファイリングされた作品では、同じイメージながらも画像処理によって彩色と共に階調が荒らされて「INVISI」の部分が際だったもの、「INVISI」は共通しながら女性のポーズが変わり、何かの記号を示すようなイメージが画面に散りばめられたもの、そうしたイメージが鮮明な色彩を使ったパターンで彩られたもの、「INVISI」に代わって「チゼルポイントのとぎ落とし」という見出しの文面が画面下方を覆うものなど、裸体とことばが、ポーズと文面、書体、色彩といった要素の組み合わせによって多彩なバリエーション群となったほか、前出の「牛」「神殿」のイメージによるバリエーションなども行われている。
 これらの作品に含まれる意味について考えてみよう。ここでの主要な要素は「裸体」と「INVISI」である。裸体は一般的には「エロス」を象徴するが、それが「否視」と訳される語と組み合わさることで、この素通しの裸体は「隠されようとする」ことを前提にしつつあるかたちとになって現れたものの象徴であるように思われる。また、この2つと重なるようにして小さく描写された様々な要素の断片は、山本が現実の世界の中で出会ったであろう様々な事象がかたちを変えた末のものであるとも取れるが、裸体に象徴される「隠されつつかたちとなったもの」が、人の意識の内に在る「世界」を暗に示すとすれば、「世界」の事象とイメージとしての「世界」が一つの画面の中で一体となって重なる様は、渾然一体として在る「世界」の在り方のみならず、意識の中での私たちと「世界」とのやり取やの場を、造形に姿を移して表しているような気がしてならないのだ。
 
 ところで、山本が作品を制作するのにあたってもっとも大きな意味を担っているのが、彼が現実の中で出会ったさまざまなイメージを「書き写す」行為であり、そこでは、文字、テキスト、画像などあらゆるものが鉛筆なその画材によって精緻に写される。これを彼は、今回の展覧会で「CODEX(写本)」というタイトルをもって言い表しているが、「写し取られた」さまざまなモノたちが均一の質感で描写される画面を見るにつけて私は、砂漠の中の細かな砂に、古代遺跡の遺物が埋もれて並ぶ様をふと空想させられたのだ。
 なぜそのようなイメージが沸き上がったのか。彼によって書き写された対象は、たとえそれが具体的なことばであっても、モノとしての元の面影は残らずに、そこに含まれていた「意味」だけが写し取られることとなる。そこでは、現実のモノが山本の意識の中のイメージにたぐり寄せられて「抜け殻」となった姿を見て取ることができるが、そこに現われる一種の空疎感は、元の意味を失ってただの物体となった、遺跡の埋蔵品がまとう空疎さと重なり合う部分があり、それが私にそうした空想を抱かせるのではなかろうか。
 山本にとっての「写本」に話を戻そう。「写し取られたもの」は、二次元上に表わされた時点で彼のイメージの産物となるが、「写し取る」こと自体を、彼と「世界」との接点を模索し構築する行為として考えれば、画面上に現われた二次元上のイメージは、記憶をはじめとする山本の意識の奥底にある「何か」が「世界」と出会い、その時にそこで感じ取ったさまざまなことが、あたかも意識の表層が支持体の上に降り積もるように剥がれ落ち、その末に「かたち」となったものであるように思われてならないのである。

 ここまで、私が山本の作品と相対して感じ取ったこと、こうした私の所感に対して返ってきた山本の思考やことば、そこからさらに私が想起したことについて触れてきたが、彼の表現の根幹をなす「否視 INVISI」、そして「書き写す」行為とは、私たちが現実の中で出会い目にしたモノや事象が実際にはその真の姿をもって感じ取られるわけではなく、個々の意識や記憶に根ざした「フィルター」のようなものを通して浮かび上がる「存在の影」こそが、まさしくその正体であるという思考がもとになっていると思われる。この「フィルター」とはすでに述べたように、一方で外界のものを内に取り入れて同化させ、その一方で内に在るものを外界に放出して異化させるという、私たちと「世界」とを「相互浸透」させるための象徴としての「皮膜」であり、視えざる真の「世界」はこの「皮膜」を通してかたちとなり、私たちの意識に新たなイメージを植え付けた後、記憶となってその奥底に堆積してゆくのである。今回行われる展覧会の中で私たちは、山本が創出する「視えざる世界の影」との出会いを体験することになるが、それは、どのような記憶となって私たちの意識の内に降り積もりその一部となるだろうか。


会場: Gallery ART SPACE
入場料: 無料
時間: 12:00~19:00
(~17:00 on every Sunday)
休館日: 毎週月曜日
住所: 〒150-0001 東京都渋谷区神宮前3-7-5第5大鉄ビル4F
TEL/FAX: 03-3402-7385
URL: http://www2.odn.ne.jp/artspace

by koso2.0 | 2005-04-12 01:48 | Gallery ART SPACE


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